「人間の便を永久保存」という一見ショッキングな試みは、私たちの健康を支える微生物多様性を未来へ残すための備えです。スイス発の「Microbiota Vault」は、世界各地の便サンプルを収集し、超低温で保全します。腸内細菌が持つ機能と地域性を丸ごと保存することで、将来の研究・治療・公衆衛生に役立てることを目的としています。
「ノアの箱舟」計画とは何か

人類の終末に備える取り組み
人類の健康を支える微生物を長期的に守る――そんな“微生物版ノアの箱舟”が、スイスを拠点に動き出しています。プロジェクト名は「Microbiota Vault(マイクロバイオータ・ヴォールト)」。2018年に構想が始まり、世界各地の健康な腸内細菌や発酵食品由来の微生物を収集・冷凍保存し、将来の研究・医療・生態系回復に役立てることを目的とします。発想の原点はノルウェー・スヴァールバル世界種子貯蔵庫で、遺伝子多様性を“冷凍で残す”という考え方を微生物に拡張した計画です。(カラパイア, マイクロバイオタヴォールト)
微生物を守ることの重要性
計画の背景には、抗生物質の過剰使用や高度に加工された食生活、衛生環境の変化などにより、私たちの体や環境に棲む微生物の多様性が失われつつある現状があります。微生物多様性の喪失は、アレルギー、自己免疫、代謝疾患の増加や、農業・環境の回復力低下とも関連づけられます。Microbiota Vaultは、こうした“目に見えない消失”に対し、倫理的枠組みと国際協働で標本を保全し、未来世代の選択肢を確保しようとするものです。(Live Science, Rutgers University, マイクロバイオタヴォールト)
保存対象はなぜ「人間の便」なのか

腸内細菌が持つ多様性
便は不快な廃棄物ではなく、数十億規模の微生物を含む“生きたアーカイブ”です。腸内細菌叢は消化・免疫・代謝・神経系にまで波及する働きをもち、地域や生活様式の違いによって組成も機能も大きく異なります。だからこそ、便サンプルはヒト集団の微生物多様性を時空間的に切り取って保存できる、最も網羅的で実用的な素材なのです。計画では、抗生物質や都市化の影響が比較的少ない地域の標本も重視し、現在の“健全さ”を将来に橋渡しします。(Seerave Foundation)
便から採取できる貴重な微生物
便由来の微生物は、将来の医療(腸内細菌移植など)や栄養・公衆衛生対策、環境修復に発展しうる資源です。実際、プロジェクトにはベナン、ブラジル、エチオピア、ガーナ、ラオス、タイ、スイスなど複数国からの標本が集まり、地域差のある“微生物文化圏”を丸ごと凍結保存する試みが前進しています。これは単なるサンプル保管ではなく、失われつつある微生物と生活習慣の関係を未来の研究者へ伝える“時間カプセル”でもあります。(Live Science, カラパイア)
保存方法と仕組み

超低温での永久保存技術
収集した便や発酵食品のサンプルは、現在はチューリッヒ大学(スイス)の設備でマイナス80℃(−80℃)のディープフリーズ保管が行われています。超低温下で代謝を止め、微生物の遺伝的・機能的多様性を長期間維持するのが狙いです。将来的には10,000件規模の便サンプルを2029年までに確保する計画で、必要に応じて環境・動植物由来の微生物にも対象を広げ、バックアップ複製やリスク分散も検討されています。(Live Science, カラパイア)
スイスの研究施設に設置された保存庫
現時点の保存は大学内の超低温設備に“仮置き”され、恒久的な保存庫の立地選定が進行中です。候補にはスイスやカナダなど寒冷地が挙げられ、停電・災害時でも温度が維持できる冗長設計が構想されています。プロジェクトは“ローンチ段階”から“成長段階”へ移行し、研究機関・財団・政府の連携で、収集・輸送・保管・利用の国際インフラを整備していきます。(Live Science, Rutgers University)
計画の背景と意義

この計画は、コロナ禍で露呈したサプライチェーンの脆弱性や、気候変動による永久凍土融解・極端気象の増加といった“長期リスク”を直視した備えでもあります。人の健康・食・環境が相互に依存する“One Health”の視点から、私たちの繁栄を下支えする微生物多様性を、倫理的に公平な枠組み(預託者主権、地域コレクションの主導権尊重)で守る――その意義は、100年後に“救いの種”を差し出せるかどうかに直結します。だからこそ、今この瞬間の便サンプルが未来にとっての“常備薬”になり得るのです。(マイクロバイオタヴォールト, Rutgers University)
まとめ

本計画は、抗生物質多用や食の変化で失われつつある微生物を“世代を超えて”守る取り組みです。多様性の宝庫である便を凍結保存し、危機の際にも再利用できる形で残します。小さな菌を守ることは、人の健康や食、環境の回復力を支える大きな安全網になります。いま保存する一滴が、未来の選択肢を広げます。